一般界とコレクター界の違いから起きる誤解
一般社会において若い頃やってきた事というものは評価されない。現在或いはそれ以降行動できる事に需要がある。
就職、転職、結婚等において『10年前なら外に出る力があったのに』と言っても『現在は?その後は?』との質問を返されるに決まっている。
入試や多くの資格試験、就職においては得点さえ取れればクリアーはできるが外に出る力が残されていないならば利益(長期的収入や卒業)を得ることは難しい。
コレクター社会は所有している事。つまり過去に行動(コレクション)している事が評価される。
コレクションとは金と時間を物質(もしくはデータ、情報、権利等)に置き換える作業である。
つまり置き換えてきた物が多ければ多いほど評価される、ある意味努力が形になる世界ではある。(維持費や災害紛失の概念も存在するが簡略化の為ここでは利息や株主優待等の所有する事による富と相殺する)
人の現在能力、未来における期待値を予測する場合は過去から推測する。これまでの経歴、所有からこれからを予測するのだ。つまり正確な値ではなく統計的期待値だ。
実際にその人間が現段階で燃え尽きていてもう動く事が出来ない状態なのかもしれないがそれを確かめる方法はない。
過去に行動してきた人間はこれからも行動するだろうと予測するのだ。
我輩自身を例に挙げこの予測は正確性に欠ける(期待値は正しいのだが分布幅が広く完全信頼しにくい)事を説明する。
言い換えれば評価を誤魔化す方法でもある。
3万枚を越える撮影写真コレクション(残っているのが3万なので消去した部分を考えると撮ったのは3倍くらい?)しているがそれを見てひきこもる事を予想できる人がいるだろうか?
古書やコミケ限定品、同人をみてひきこもる事を予想できる人がいるだろうか?
写真においては撮影だけでなく衣装作成技術や人脈作り能力、体力等も所有している物と考えられる。
後者のコレクションにおいては通販や目録販売、オークション等の手段もあるが経済的にも時間的にも効率は数倍落ちる事からひきこもったまま所有拡大をしていけるとは考えにくい。
『所有』を主張する事で『行動』できる人間だと相手に錯覚を起させるのだ。
所有は『過去に金と時間を置き換える事をしてきた証拠』であり所有を主張する事でそれに対し評価を与える。
よって一般人はそれに騙されて我輩を『行動力のある人間』だと誤解する。
実際はコレクターは『時間をコレクションに置き換える活動』をしている為『使用できる時間』は少なく『行動』する事はない。
そして一般人は『もっと動ける人間だと思ってた。騙された』と文句を言う。所有から勝手に判断し予想をしておいて騙された扱いをしてくる。
このトラブルがある限り一般人と深く付き合うのは無理なんだろうなあ・・・
『知識量が多い』と言うのと『新しく知識を学ぶ事ができる』と言う事は相関関係にあるだけで別だと言う事を理解して欲しい。